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関東城岳同窓会会報より「特集座談会 二中の番外史を語る」

掲載:2006年1月

出席者
・高田普次夫(二中23期)・池之上光夫(二中31期)・藤井和雄(二中31期)
・山路安清(二中34期、司会)

二本の白線に秘められた誇り

山路:会報第3号で「二中の歴史を辿る」を特集し、第5号で座談会「すばらしき青春―わが二中時代」を取り上げました。 今日は視点を変えてこれまで取り上げられなかった話題を中心に二中の番外史とでも言うものを語って頂きたいと思います。

高田:今日のこの会合に来るに際して資料を調べていたら私が入学した年の昭和7年卒業(18期生)の「卒業50周年記念誌」が見つかりました。 この記念誌には面白い話がたくさん収録されていますので、後ほど紹介したいと思います。その中で私が一番感動したのは二中のシンボルである帽子の「二本の白線」誕生の経緯を紹介した文章を発見したことです。

山路:ほおー、初めて聞ききました。二本の白線が誕生した背景にはどんな逸話があったのですか。

高田:ご存知のように吾が二中は明治43年(1910年)4月、沖縄県立中学校(一中の前身)の分校として首里城北殿で呱々の声を上げ、翌44年(1911年)4月県立第二中学校と改称、一中より高良隣徳先生を校長に迎え首里城址でスタート、45年(1912年)4月には嘉手納移転を敢行しています。
しかし、この移転は二中にとって致命的なものでした。地の利を得ないため、志願者は減る、中途退学者は増えるで、大正4年(1915年)の第一回卒業生は入学時の97名が30名という惨憺たる状態でした。

山路:そこで二中の廃校問題が持ち上がるのですね。

高田:そうです、大正4年(1915年)8月廃校問題が持ち上がります。当時県当局の意見は「中途退学者が多く発展の見込みなし」、「二中を廃止しその財源を以って産業の萎靡を救うべし」、「中頭農学校(組合立)、島尻農学校(組合立)を廃し、国頭農学校(県立)を嘉手納に移す,そのため二中を廃すべし」と言うものでした。

山路:わずか4〜5年前に新設した学校を廃校にするとは随分乱暴な話ですね。

高田:この廃校論に対し高良校長以下教職員は猛烈に存続運動を展開、それに世論の後押しもあって廃校は避けることが出来たのです。 廃校の悲運は免れたものの存続の条件として生徒定員400名を250名に減らし、同一敷地内に農学校と併置するという条件を呑まざるを得ませんでした。 その間の生徒達の不安や動揺は筆舌に尽くせぬもので、廃校問題に無関心な生徒に対し廃校反対派の生徒が制裁を加えるという凄惨な事件も発生したと記されています。

池之上:このことが後に農学校と生徒同士の衝突を引き起こすのですね。

高田:そうです。生徒の定員は減らされ、その上農学校の校長が二中の校長を兼務するという、まさに「ひさしを貸して母屋を取られる」という屈辱を受ける結果となったのです。鬱積した不満がついに二中全校生徒による「農学校寄宿舎襲撃事件」となり、さらには全校生徒の「同盟休校」にまで発展したのです。 このような逆境の中、農学校生との区別を明らかにし二中生としての誇りを持ち続けたいと、生徒からの希望により大正6年4月13日、帽子の周囲に「二本の白色の蛇腹紐」を附すことを決定したと言うのです。

山路:このような苦しみの中から二本の白線が誕生したとは、全くの初耳です。二中だから白線は二本なのだと単純に考えていました。先輩達の二本の白線に託した熱い思いがその後の二中の大躍進に繋がっているのですね。 ところで、編集子からは「二中番外史」的な視点からの座談会にして欲しいとの依頼ですので、この辺で学生時代の先生方の思い出話に移りたいと思いますが・・・。

ヤマトビト墓とグラー先生

高田:二中の卒業生ならば「思い出の教師」といえば先ず「グラー先生」こと大城 有先生の名前を真っ先に挙げるでしょう。 これほど生徒に愛された先生も居ないと思いますね。 熊本の連隊を退役した先生を教練の先生として二中に引っ張ったのは志喜屋先生だったそうです。

藤井:グラー先生を語るときすべての卒業生が懐かしく思い出すのは教練の分列行進で「目標、前方のヤマトビト墓の右から二番目の穴のホゲた墓石」というあの号令ではないでしょうか。

池之上:このエピソードはどの期の記念誌にも必ず紹介されているほどの古典的なものですね。先輩からも聞かされたし、私達もその号令で行進した記憶があります。先輩に聞いた話ですが、雨上がりの運動場で寝射ちの姿勢を命ずるのは流石にグラー先生も気の毒と思ったのか「分隊長は小使室に行って、カマゲを取って来い」と命じ、生徒も心得たもので素早くカマジー(“かます”のこと)(注)を取ってきたと言いますから、まさに師弟の息はぴったりだった(笑い)。

(注)「かます」とは穀物・塩・肥料などを入れるのに用いる、藁むしろを二つ折りにして作った長方形の大きな袋のことをいう。

高田:一期後輩の与儀幸信君がグラー先生の次男の守さんから直接聞いた話として記念誌に以下のエピソードを紹介しています。 守さんが波之上祭で賑わう大道で、父親が向こうからやってくるのに遭遇した。彼は挨拶もせずに黙って通り過ぎた、とたん「こらこら、そこへ行く二中生待て、お前の姓名と学年を名乗れ」と大声で呼び止められた。天下の公道でしかも女学生の一群の好奇の視線を浴びる中、不動の姿勢をとらされた。「お前の学校では道で先生に逢っても挨拶もなく通り過ぎて良いことになっているのか」、「学問は習っても礼儀は教わっていないのか」と散々油を絞られた。
帰宅した父親の言うには「俺とお前の二人きりならあれで良いが、天下の大道でのことだ、俺を二中の先生と知っている他校の生徒も居るはず。 お前を知らないその生徒達が、君の態度を見て二中の躾をなんと批判するか、二中の先生としては許されない事だ」と。彼は父の話を聞きながら「ごもっとも」と平身低頭して詫び、反省したという。この逸話などまさにグラー先生の面目躍如というところですね

司会:グラー先生の話となると切がありませんが、ひとまずこの辺で次に二中で最も尊敬されかつ最も恐れられたライオン校長、志喜屋孝信先生に話題を移して下さい。

誰もが恐れたライオン校長

高田:古い資料を漁っていたら、昭和25〜26年頃に郷土沖縄の帰属問題についての情報誌として東京で発行された「おきなわ」に城岳子(ペンネーム)が“わが母校、二中”と題した文章を投稿しているのを見つけました。その中にライオン校長のエピソードがありますのでその大意を紹介しましょう。

「ある日、私(城岳子)の弟がライオン校長に呼ばれた、本人は当然ながら同級生も顔色を失った。弟は前夜映画を見ていたからである。ライオン校長の呼び出しとは天下の一大事。退学処分を覚悟した弟は意を決して校長室を訪ねた。ところが気が動転している彼は校長が何を言ったのか理解する能力すらなくしていた。翌日、今度は兄である私(城岳子)が校長室から呼び出しを受け母親宛の一通の手紙を渡された。

“弟の罪、遂にわれに及ぶか”と覚悟を決め母に手紙を渡す。手紙を読む母の顔の動きを一つも見逃すまいと私達兄弟は息を呑んで見守った。 ところが、意外にも母は腹を抱え、涙を搾り出すほど笑い出したのである。奪い取るようにして読んだその手紙には“ご子息は如何なる次第にて候や、気も転倒したる様子にて、小生の話をさらに耳にとめざるものの如く見受けられ、頼りなきことと思われ候を以って、本日改めて書状を差上ぐる次第に候、云々”とあった。 校長先生と私(城岳子)の家とは以前からの親しい付き合いで、このときも何か私的な用事で母への伝言を頼んだものであった」。

以上が事の顛末です。弟さんの狼狽振りもさることながら、以ってライオン先生の恐ろしさ具合を推測する事が出来ようというものです。

山路:とても面白いお話しですね。我々の時代にはもう志喜屋校長は二中には居られませんでしたのでよく分かりませんが、どうしてライオンというニックネームがついたのでしょうか。

高田:昭和7年卒業の仲栄真正清さんが50周年記念誌に書いておられますが、昭和5年か6年頃の校内弁論大会で同期の高良英昌さんが「愛郷心」という題で「大いに方言を使うべし」と熱弁を振るったところ、その場に居合わせた志喜屋先生が烈火のごとく怒り「黙れ、壇から降りろ」と大きな雷を落としたそうです。(注)

(注)琉球処分以来、沖縄人を日本人へ同化させるためにと県当局が中心となって「標準語励行」運動を推進していました。 特に戦時体制の強化時代を迎え「国民精神の注力」として「方言廃止、標準語励行」が県学務部主導の下、一層強力に展開され、学校では方言を使うと「方言札」を首から掛けられるという時代でした。この一件はこのような時代背景の下で起きた出来事だったのです。

そのとき以来、ライオンの綽名が奉られたと仲栄真さんは書いておられます。

藤井:私の兄貴達の話によるとただ怖いだけの先生ではなく時には面白いことを言って皆を笑わせるヒョウキンな面も持ち合わせていたそうです。 兄貴に聞いた話ですが、代数の最初の授業で「代数とは君達の親父の事ではない。ダイスー、ダヤースーの事ではない。これは真面目な学問である」と言われたことや比例の問題で「A対Dと言われて、ヌーガタイフーなどと返事してはいけない」など怖い先生だけに忘れることが出来ないと懐かしそうによく語っていました。

高田:志喜屋校長は確かに怖い先生でしたが、新学期の最初の授業には今の藤井さんの話のように生徒が興味を持つような面白い話題で授業を始めるなど、とても思いやりのある先生でした。私などはその後姿に威厳すら感じたものです。 私が先生から直接聞いた愉快な話は、先生が夏休みで米国に行ったとき、床屋に入って “Please cut my head”と言って床屋の親父をびっくりさせたという一席でした。

中興の祖、志喜屋先生

池之上:二中に入って先ず驚いたことは、席次順に座らされることでしたが、これは志喜屋校長の発案だと聞いたのですが・・・。

高田:第24期の50周年記念誌に真栄田義見先生が一文を載せておられますが、その中に次の文章があります。「先生の教育方針は生徒の机の並べ方にも表れていた。級長、副級長をはじめ三番、四番と成績順で机が並んでおり、教室に入ると誰それは一番、誰はビリだとはっきり分かる並べ方であった。それも生徒を激励するためだった。」と書いておられます。

具体的には、「席は七列あって、一列の一番前が席次一番の級長、七列の一番前が二番の副級長、三番は一列の一番後、四番は二列の後という風に順次並び、前になるに従って席次が落ち、一番前が一番出来ない生徒であった。私は前から二番目に座っていたから、出来ない組であった。」と第18期、(昭和7年卒)の嘉手納宗徳さんが50年記念誌に述懐しておられます。

山路:志喜屋校長が名門校としての二中の礎を築いた中興の祖と言えますね。

高田:全くその通りで、志喜屋先生は「教育の成否は教師の如何にある」との信念で県内外から多くの優秀な教師を招聘したそうです。屋良朝苗先生、真栄田義見先生、富川盛武先生、比嘉秀平先生など錚錚たる方々が意気に感じて馳せ参じたといいます。

山路:私の兄貴達はあのころ課外授業に通っていたように記憶しているのですが、実際にそのような予備校のようなものがあったのですか。

高田:ありました。前掲の真栄田義見先生の一文にも「志喜屋先生の許可を得て、二中前の樋川の上方に一軒の瓦葺の空き家で夜の受験指導も行うことに一決、昼夜の特訓を行うことになった」とあり、その甲斐あって生徒達はそれぞれ海兵、陸士、高等学校に合格しています。立津政順さんが水戸高校から東大医学部へ、その後を受けて、鈴木敏行さん、嘉陽安春さん、西銘順治さんが水戸高校、東大へ、宮里辰彦さん、安仁屋賢精さんが七高、東大へ、古波倉正照が五高から名古屋大医学部へと進んでいます。

藤井:当時の二中のレベルは相当高いものだったと思います。私が熊本中学に転校して分かったのですが、二中の教科書は熊中や東京の府立一中(都立日比谷高校)と同じものを使っていました。お陰で熊中への転入試験も無事にパスすることが出来ました。

高田:教師のレベルも高かったし、試験も旧制高等学校を意識した出題のしかたをしていましたよ。 例えば、照屋ポン助先生の英語の試験は4問中、2問は教科書をきちんと勉強しておれば解ける問題、3問目は教科書の範囲だが応用問題、4問目は教科書と全く関係のない問題という風で、レベルは高かったが何とか及第点は取れるように配慮されていました。

個性豊かな教師陣に囲まれて

山路:グラー先生、ライオン校長と来れば次は体操のアモー先生とくるのが順当なところだと思いますが、高田さんアモー先生の綽名の由来をご存知ですか。

高田:体操の喜納信吉先生はよく「モーション」という言葉をよく使っていたが、何故かその都度「モーション」という言葉の前に「ア」をつける癖があったところから「アモー」と命名されたと聞いています。

山路:アモー先生というと消防署通りの「ニッポンイチ」を思い出します。学校帰りに先輩が時々「日本一」で“ぜんざい”をご馳走してくれるのですが、当時はもののない時代でしたのでとても有難いことでした。困ることは甘いものが好きなアモー先生が下校時に良く裏口から入ってくることでした。先生のやって来そうな時間になると先輩が「フェークカメー」と急かせるので熱いぜんざいをフーフー言いながら流し込んだことが懐かしく想い出されます。

藤井:先生の綽名といえば、その他にも地歴の「ヒージャー(山羊)」外間○○先生、英語の「ランボー(乱暴)」小波蔵政光先生、同じく英語の「タウチー(軍鶏)」太田吉士先生などがおられましたね。

池之上:それから物理の「エーテル」大城純義先生、化学の「ヒジュルー」稲福全栄 先生(那高の稲福正樹先生の厳父)、それに物理のチョビ髭を生やしチャップリンに似ているので「チャップリン」仲宗根善栄先生など思い出します。

高田:まだありますよ。柔道の山城興純先生の「ドゥル軍艦」の由来は、当時日本海軍が那覇港に寄港した際、水兵と行った親善柔道大会で大男の山城先生が小兵といえども毎日鍛えている水兵に負けたことから「見掛け倒し」という意味を含め「泥軍艦」という有難くないニックネームを頂戴する羽目になったのです。

その他に、当時少年倶楽部の連載漫画の「ゴリラのポン助」に似ているので「ポン助」となった英語の照屋彰義先生、近江聖人に模して泊聖人と呼ばれた国漢の真栄田義見先生、人格教育を目指し a manについていつも教え「a」の発音の難しさを繰り返し教えていたので「アーマン」となった新崎盛珍先生も懐かしいです。

山路:当時からノグチゲラの研究をし、それに関する珍しい話をよくしたので「パーフチャー」と名付けられた博物(生物)の玉得○○先生、それから肝心のお名前は失念しましたが数学の「ハナコサン」など挙げれば切がありませんね。

高田:池之上さんがお話になった物理の大城先生が「エーテル」という綽名だとおっしゃっていましたね、それに直接関係あるのかどうか知りませんが、同じ物理の屋良朝苗先生のエーテルにまつわる面白い話がありますので紹介しましょう。

先生は独特のイントネーションで講義をされますが、ある時エーテルについて講義をした後に階段教室を見上げながら「君達の中にエーテルを知っているものは居るかね」とお聞きになった。 一瞬静まり返った教室で一人だけ手を上げた奴がいた。先生が指名すると「ハイ、若きエルテルの悩みを知っています」と答えた。先生すかさず「エーテルが悩むか、この馬鹿者」と一喝したので皆笑いを堪えるのに苦労した楽しい想い出があります。

この話は二中とは直接関係ありませんが、後に屋良先生が台湾の台北第一師範に転じた時の教え子に自民党税制調査会長を長く務めた山中貞則さんが居られたそうです。山中さんは先生を大変尊敬し、その影響もあってか戦後沖縄のために随分と力を尽くされたことは皆さんご承知の通りです。

二中時代の思い出あれこれ

山路:先生方の話は尽きませんが、これからは学生生活の想い出などを思いつくままお話して頂きましょう。藤井さん口火を切って下さい。

藤井:私はウーマクーでしたのでほとんどが怒られた記憶ばかりです。中でも、阿波根朝松先生に怒られたことを鮮明に覚えています。

創立30周年記念式典に詩吟部が出演することになっていました。しかし、私は練習をサボってばかりでしたので、ある日、阿波根先生に呼び出された。出頭すると日本刀を抜刀した先生に「切り殺す」と脅かされ、挙句には職員室の中に立たされる羽目にあいました。そのとき授業に行く先生方にかわるがわる拳骨を頂戴した苦い想い出があります。阿波根先生は決して本気ではなかったと思いますが純真な少年だった私は生きた心地がしませんでした。

山路:ところで制裁などは受けたのですか。

池之上:5年生が卒業すると、対面式というのがあるのです。4年生が3年生を剣道場に集め正座させ、それを4年生が取り囲むのです。なぜ剣道場かというと柔道場は畳み敷きだから板敷きの剣道場にしたのです。(新1年生の場合には2年生以上との対面式が行われるのです)

藤井:それで3年生を一人づつ立たせて4年生が審判に掛ける、先輩にシッチョールーが居ると庇ってくれるのだが、そうでない場合は4年生の恣意で制裁組に分けられるのです。それまで私を庇ってくれた先輩は皆卒業してしまい、その上私はよくマチマーイをして睨まれていたのが悪かったのでしょう、徹底的にやられました。

池之上:制裁の理由なんてものはありません。その時の先輩達の気分次第できまるのですからたまったものではないですよ。ただ殴りたいから殴るというものです。全く意味のない話です。 背が高いというだけで制裁を受けた奴もいたのですから。

高田:応援歌で印象に残っているのは“スヤスヤ ククリト アマリト”だ。

昭7会の50周年記念誌に収録されていますが、私の入学直前(昭和5〜6年頃)、どういう経緯があったのかは知りませんが、台湾奥地を探検した探検家が校庭に全校生を集めて講話をした後に教えてくれたのがこの歌で、意味など全く分からないまま応援歌になったものの様です。

池之上:「出陣の歌」、「凱歌」、「攻撃の歌」、「雪辱の歌」、「二中健児の歌」など数ある応援歌の中でも、これは異色の応援歌でしたね。

山路:この“スヤスヤ”の歌は聞いたことはありましたが、その誕生の経緯やその歌詞が記録されているのを見たのは初めてです。

応援歌で思い出すのは、戦後、昭和24年、メーデーを見学しようと会場に向かっていると、なつかしい二中の応援歌が聞こえて来るではないですか、私は感激して一刻も早く見たいものと会場の宮城前広場目指して駆け出した記憶があります。我々が歌っていた応援歌の元歌はなんと「赤旗の歌」だったのです。

歌の繰り返し部分が「高くたて赤旗を、その影に死を誓う、卑怯者さらば去れ、われらは赤旗まもる」というあの歌です。

池之上:応援歌で思い出しましたが、当時毎月1日は「興亜奉公日」(注1)と定められ、隊列を組んで波之上参拝に行くのですが、私を含めた3人の生徒は身体が小さいので三八銃(注2)ではなくおもちゃの様な騎兵銃を持たされたものです。

それがとても恥ずかしかった。というのも沿道では女学生が日の丸の旗を振っている中を行進する、すると彼女達が我々3人のチビを見て笑っているのが分かるのです。あの時ほど惨めな思いをしたことはありません。

(注1)「興亜奉公日」とは昭和14年8月閣議決定されたもので「当日全国民は挙って戦場の労苦を偲び自粛自省之を実際生活の上に具現すると共に興亜の大業を翼賛して一億一心奉公の誠を効し強力日本建設に向かって邁進し以って恒久実践の源泉たらしむる日となすものとす」と定められていました。
(注2)明治38年(1905)に採用された旧日本陸軍の歩兵用小銃。

藤井:あの当時、教護連盟という組織がありましたでしょう。夜間外出や映画見学、買い食いなどの取締りを全地域の教職員が協力して行う組織で保護者会もその下部組織として眼を光らしていましたね。

山路:教護連盟と言えば、私には苦い経験があります。 かくれて旭館(映画館)に映画を見に行ったときの事のです、暗がりの中で一見先生らしき大人に「きみ、きみ」と肩を叩かれ、旭館の北側にある祠(ほこら)のところに呼び出されました。「学校はどこだ」と聞かれ、仕方なく「二中です」と答えると「持っているカネを見せなさい」と言う。 有り金すべてを出したところ、「明日、学校で渡すから、それまで私が預かっておく」ということになった。

翌日からは、いつ呼び出されるかと恐怖に怯えながら息を潜めて待っていたのですが、いつまでたっても音沙汰なし、結局、停学処分は免れたもののニセ教師にしてやられたという悔しい経験をしました。

高田:私達の頃も先生がチェックはしていましたが、ユーモアを解する先生も多く、映画館の中で見つかっても「面白いか」、「面白いです」と答えると「よく見て帰りなさい」と言うだけ。 言われた本人は見逃してくれたと喜んでいると、翌日呼び出しがかかる、一瞬裏切られた思いで出頭すると「昨夜の映画はどうだった」と聞いただけで見逃してくれるような先生がいたものです。 一応呼び出して説教(形式的な)したのだから職務は果たしたことになるという粋な裁きをしたものでした。

山路:話は尽きませんが、紙面の都合もありますのでこの辺でお開きにしたいとおもいます。本日は長時間有難う御座いました。

(文責:真栄田 修 那高8期)