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那高サッカー部の全国大会初出場と16強達成を喜ぶ  関東那高十期生会会長 中山 侑義(69)

掲載:2008(H20)/1/12

 第1戦の福井商との試合は大晦日の午後2時10分から横浜三ツ沢サッカー場で開始。前半戦で1対0、後半で0対0、併せて1対0で初陣を飾っています。第2戦は年が改まった正月2日、第1戦同様午後2時10分キックオフ。会場は川崎市内の等々力「サッカー場」でした。対戦相手は神戸科学技術高校。これも前半が1対0、後半が0対0の計1対0の勝ちでした。

 第3回戦は翌3日再び三ツ沢競技場で正午10分過ぎから三重県代表の津工業が相手。前半0対0で中休みし、後半1点先取された後、那高イレブンが1点を奪取、前後半戦合わせて1対1としました。

 そのまま両軍とも激しい攻防を繰り返しながら、追加点が取れず、残すところ5分を切ったかどうかと言うその一瞬、魔が差したかのように母校チームは対戦相手に先に1点を許し万事休す。私は道で財布を落とした後や、空き巣に入られた直後に似た虚脱感に陥ったのでした。

 しかしながら、母校の出場選手たちや、応援に廻っていた同サッカー部の、子や孫ほどの後輩男女生徒達と一緒に居ては失意の色を顕にするわけには行かず、身の回りの後片づけに精を出しています。

 これに先立って、私ども那高「花の十期」は、去る平成12年夏の甲子園大会出場(公式野球部)程は行かなくても、後輩たちの応援には可成り出遅れ且つ可成り不充分ながらも連絡し合い、同期他同窓会の先輩後輩と一緒の応援を続けました。

 那覇の母校に残って応援態勢下の副校長・慶田先生や、選手団と共に暮れの26日7日から都内の若夏荘に陣を張っていた白金先生に相談を仰いだり連絡をしています。

 その上で、私ども那高イレブン出場の各試合ごとに応援席後方高台のフェンスに「関東城岳同窓会」の白い横断幕を母校の赤い幕や幡等に添えました。甲子園の野球大会と違って、大会運営者側からの決められた「高歌斉唱」の時間が設けられていないとの事。それじゃーと言うことで、競技場での前後半戦間の中休み冒頭に、「城岳原頭空高く」を応援団全員が起立して声を張り上げたのでした。その歌詞を一番から四番まで大きな古いカレンダーの裏に急拠書き写し、自宅から私は持参しております。

 初日の試合が始まる前には那高8期卒の長嶺紀晃様が、これまたお宅で用意して会場へ持って来て下さったコピーで母校の古い応援歌の一つ、「熱球血を啜(すす)りて」も皆んなして声高々に歌いました。白金先生と打合せて、緑の校旗も競技場に立てております。

 その他、私どもは応援席から寄附を募り、5万8千余円を母校へ託すことも出来ました。(第2戦の1回きりでしたが・・)

 他都県応援団には甲子園同様ブラスバンドやチヤーガールを繰り出し、ユニホーム代わりの帽子やシャツ、ハッピ、タオル等を揃え、更に寺社の縁日のような色とり取り幟を林立させたところも有りました。それに比べ、母校の応援席は人数も少なく、飾り物等も乏しかったのです。しかし数より質と言うか、出場選手や応援席のサッカー部員やその父兄を始め、那高の志気と応援そのものは決して他に負けていなかったのです。

 その他、好天にも恵まれ、連日良い日向ぼっこにもなりました。何より、応援団としての関東城岳同窓会会長・山路安清様や那高の先輩・同輩・後輩男女他との、よそでは味わえない同胞愛が有りました。併せて、母校の現役の先生方や生徒たちとの絆や誼しみを増幅させる事が出来ました。

 これこそが金では買えない、より嬉しく貴重な人と人との絆であり、また頭や理屈、打算では計れない誼しみ、幸せ、「元の19」に立ち返った青春だったのです。

フレー!フレー!那覇高!

「励まし、励む、那覇高校!」

中山 侑義(旧幸義)

  • 那高10期3年5組
  • 1957年(S32年)卒
  • 関東那高十期生会会長
  • 同横浜ほのぼの会会長
  • 那高十期県外在住者委員会会長
  • 関東城岳同窓会幹事